2017.05.06

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2017年4月29日(土)に開催された「デジタル憲法フォーラム(デジ憲)」での石破茂衆議院議員のゲストスピーチ全文書き起こしです。

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皆さまこんばんは。

珍しく元防衛大臣というご紹介をいただかなかった衆議院議員の石破であります。

この後、細野さんや大村さんからいいお話があろうかと思いますが、前座みたいなことでお許しをいただきたいと思います。

今、日本人は1億2,700万人いて、このままいくと西暦2100年には5,200万人に減って、200年経つと1,391万人になって、300年経つと423万人になるということはご存じの方もいらっしゃるかもしれません。

あと80年で日本人は半分、200年で10分の1、300年で30分の1と、どんどん人口が減るわけですね。

国ってのは、国家主権って何でしょうかということを学校で習っただろうか。

法学部出身の人もいるかもしれないが、私も一応法学部法律学科を出ているのだが、国家主権って何って正面から習ったことがない。

国家主権というのはおそらく、領土と、アイデンティティを共有する国民と、統治機構、この3つによって成り立っていて、領土を守るために自衛隊があり、そして、統治機構を守るために、例えば我が党で言えば自由民主党の党員資格は18歳以上の日本国籍を有する者とこういうことになっています。外国人の方の人権はめいっぱい尊重しますが、しかし統治そのものに関わることはありえないのだと思っています。

拉致問題が大事だと言っているのは、日本人というものがああいう形で拉致をされて帰ってこれない、つまり、国民一人の生命を守ることができないというのは国家ではないということであって、領土・国民・統治機構、これが国家主権の要素だ、ということらしい。

領土と統治機構をどんなに守っても肝心の国民が10分の1になることですから、これは有事っていうのは北朝鮮からミサイルが飛んでくるだけが有事ではなくて、国家主権が崩れつつあるというのは、これも有事なんだよね、「静かなる有事」と私は人の言葉をパクって言っておるところであります。

日本人ていうのは50年に1回、国を造り替えてきた。

来年は、明治でいえば150年です。1868年、明治維新、廃藩置県、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦でだいたい最初の50年。

次の50年ていうのは、満州事変、国際連盟脱退、太平洋戦争、敗戦、経済成長、日本国憲法。

日本の国が、当時はGNPと言っていましたが、西ドイツを抜いて世界第二位になったところでちょうど明治100年、1968年。

で、来年は明治150年になるわけで、さあ、この50年の間に、我々は日本の国を造り替えようとしてきただろうか、グレート・リセットというのををしようとしてきただろうか。たぶんしていない。

ともすれば、過去の遺産を食いつぶして次の時代に負担を先送って、なんとなく刹那的にやってませんか。

という反省が31年国会議員をやっていて強く思っているところであります。

国家主権そのものが崩れつつある。

食糧を作り、エネルギーを作り、出生率が高い地方が滅んで、出生率が日本国ダントツ最低で、食料生産をほとんど行わず、エネルギーを生産しない東京だけが残るという日本国はありえない。東京一極集中とはそういう話であって、地方創生というのは東京の人と富を地方にばらまこうなんぞというつまらないことを考えているのではない。

GDPが500兆から600兆と威勢のいい掛け声があるのだが、じゃあどうやって、私はGDP至上論者ではないのだけれども、人口が減っていく中でどうやってGDPなるものを維持し伸ばしていくのかを考えたときに、今まで公共事業があるからね、誘致企業があるからね、そこに雇用と所得があるからね、ということで地方は支えてきたのが、公共事業というのはそりゃもちろん必要なものはやりますが、かつてのような公共事業で地方を支えることは極めて難しい。同じものを安くたくさん大在の人に作るというモデルはもはや日本に向かないのであって、それで地方を再生することも難しいだろう。

そうすると、私は農林水産大臣もやっていたのだが、農業、漁業、林業ってものすごいポテンシャルを持っていて、だけれども国内では生産調整、高い関税張って外国から物を入れない、そんな産業が伸びるわけはない。親の敵と魚は見た時とれみたいなこと言ってたら資源は枯渇するのは当たり前のことなのであって、そして、この東京に木造の10階建ては一つもないのであって、ヨーロッパでは当たり前のCNPという技術が全く普及していない。

これも農業、漁業、林業、これは潜在力を最大限に伸ばさねばならんのだ。

飲食、宿泊でいうと日本人の一人あたりの生産性はアメリカの4分の1ですから、そこに3倍の伸びしろがあるよねということなんですが、なかなか観光というのも飛躍的に伸びるというお話になっていないということなんですね。

そこで申し上げたいのは、たしかに憲法だ、地方自治とは何だ、国と地方の関係って何だっていうことなんですけど、本当、地方の政治ってのが「お任せ民主主義」になっていませんか。

知事を選んだらそれでおしまい、市長を選んだらそれでおしまい、議会の議員を選んだらそれでおしまい、その投票率もめちゃくちゃ低いわけですね。

これって一体なんだろう。地方自治ってのは民主主義の学校だと言われるんだけど、その地方自治がこの有様で国政だけが立派だということはあるはずはないと私は思うわけですね。

国民主権ってなんですか?この国に本当に国民主権ってあるんですか?という問いかけをした人がいました。

名前を聞いたことがあるかもしれませんが、田中美知太郎という立派な哲学者が昔おりました。もうとっくの昔に亡くなったのだけれども、この田中美知太郎先生が、「日本に国民主権はあるか」という小論を書いておられて、大学生のころにそれを読んだことがあります。

国民主権の前って、君主主権だったわけですよね。

王様が勝手に税金を集めて、税金と言っていたかは別として、勝手に使う。

王様が勝手に戦争を始めて、勝手にやめる。

ネーションステートでは無かったから国民という概念はなかったかもしれないけれど、そこにいる人びとは、「王様、おねげえでございますからそんなに年貢をとらないでくださいまし」とか「王様、おねげえでございますから戦争なんかやめてくださいまし」とか、お願いする立場でしか無かったわけですね。

それはいかん、国民が決めるんだということで、国民が税金の集め方を決め、使い方も決める。

外交も安全保障も国民がやる。全部国民投票に付するわけにはいかないから、大統領制とか議院内閣制とかをそういうものをつくるわけです。

田中先生曰くは、「であるからして、投票のときに主権者というからには自分が為政者なりせばどうするかということを考えて投票しなければそれは主権者でもなんでもない」と、税金は安く、負担は軽く、受益はいっぱいなんてことが、そんなことがあるはずがないということです。

自分が為政者なりせばどうするか、ということを考えて投票しないのは、そんなものは主権者ではない。

臣民、Subjectですね。大臣の臣に民と書きますが、それは臣民なのであって主権者とはいわない。

しかし、この国において、自分が愛知県知事なりせば、自分が御殿場市長なりせば、自分が鳥取市長なりせば、と言って一票入れている有権者は一体どれくらいいるのだろうか。

良い知事選べば大丈夫だ、良い議員を選べば大丈夫だ、っていう、じゃあその人達が何を言っているかをきちんと精査をして一票を入れているか。

私は民主主義というのはそういうものであって、ある意味、不真面目に考えているととんでもない帰結しか待っていないということだと思います。

今までは、1,718の市町村があるが、ヒト・モノ・カネが、どんなヒトが、どんなモノが、どんなカネが、どこから入りどこへ出て行くのかという情報は行政しか持っていなかった。議会すら持っていなかった。

ヒト・モノ・カネがどこから入りどこへ出ていくのか。

首長たちは経験と勘と思い込みでやっていて、最後は先生お願いしますって永田町にやってきて、それで本当にやっていた時代があったのだ。

それは経済が伸びて、人口が伸びていた時代はそれでも良かったかもしれないが、経済はほっときゃ伸びない、人口はほっときゃ急減だという時に、1,718市町村がわが町は何を持ってどう伸ばしていくのかという情報が行政のみならずRESASシステムによって全ての市民に提供されています。

地方創生が失敗をするのは、やりっぱなしの行政、頼りっぱなしの民間、全然無関心の市民、三位一体になったときにそれは終わりなのです。

私は民主主義といのはそれだけ厳しいものなのだ、いい加減なことを考えていたらとんでもない帰結しかないのだということをきちんと私どもが語っていかねばならない。それは政治に携わるものの矜持でもあるし、国民一人ひとりの意識でもあるし、だけど情報がなきゃどうしようもないんで、情報提供はしています。

その時に、それぞれの人びとが主権者としての自覚を持つかどうかが一番大事なことで、それは国民主権ということは大事なことだ、それは地方においても中央においても一緒である、と思っているというところであります。以上です。ありがとうございます。