選挙権年齢が18歳に引き下げられ、若者の政治参加に対する期待が高まっている一方で、学生団体SEALDsの安保反対運動に対する世間の反応は冷ややかで、若者の間でも温度差が生じています。
「我々若い世代は政治に対してどのように向き合っていくべきか?」
この問いの先にある答えを求めて、ユースデモクラシーの嚆矢にお話を伺うべく、かつて砂川闘争の学生運動をリーダーとして指揮し、60年安保闘争を戦い抜いた後、中曽根元総理の懐刀となった小島弘氏(83)にインタビューを行いました。半世紀前の20代の若者はどのように政治に向き合っていたのでしょうか。
(本インタビューは2015年9月18日に実施したものです。)
60年安保というユースデモクラシー 米軍基地を撤退に追い込んだ小島さん
仁木
最初にお伺いしたいのが、小島さん達が立ち上がられた動機というものについてです。どういうお気持ちで運動に参画されたのか。我々のような20代は文字ベースの歴史としてしか60年安保を知りません。当時の思いを、生の声をお聞かせいただけますでしょうか。
小島
1955年の日本共産党第6回全国協議会(「六全協」)の武装闘争路線の放棄で、当時の学生運動は盛下がっていたんだよね。それまでは武装闘争だということで盛り上がっていたので。だけど1956年9月から10月に学生運動が復活してね。そんな時に僕らは砂川に乗り込んだ。
砂川闘争は、森田実(現政治評論家)が記者会見で3千人動員するんだと吹いてしまったんだけど、実際その通りになった。学生が一人当たり百人動員したことになるね。しかも、昔の立川は今より不便で、砂川までは立川駅からバスで20分くらいかかるから、参加者の一部はバスで道中で学生を拾ったりして向かったんだけど、結局は参加者がバラバラに現地に集合することになって、中には砂川の中学校に泊まったりした人もいた。そうすると、学校は違っても凄い連帯感が生まれるんだね。地元の百姓さんがご飯をご馳走してくれたりと応援してくれたね。
そして、結果的には、米軍基地を拡張しようとしたが、結果的には砂川ではそれが出来なかった。砂川基地は、今では昭和記念公園のような立派な施設になっているし、立川基地自体も縮小されたわけだね。
こうした盛り上がりの背景には、当時の普通の大人達には戦争の被害者という意識があったて、要するに、うっかりすると、また大変なことになるぞという意識だった。その意味では、今よりはもっと深刻だよね。だって、自分の友達や親兄弟が、それこそ戦死した人もいたので、もっと戦争というものが自分にとって身近だったんでしょうね。
仁木
参加した学生は、初めて砂川で会う人が多かったのですか?
小島
結構多かったですよ。当時は大学の自治会で動員するから。砂川闘争で面白いのは、共産党が手を引いているというのではなかったんだよね。基地反対闘争の中心になったのは地元の地主なんだよね。基地の拡張で土地をみんな取られちゃうから。
むしろ、共産党はそれまで地主反対の運動をやっていたものだから、地主さんたちは「小島さんね、共産党の連中が来たら向う脛を叩いてやれ!」とか僕に言うんですね。笑
後で国会議員になった共産党の某氏なんて、よく砂川に来たけど、入れてもらえなかった。そういう意味では、純粋にね、学生さんと清水幾太郎(社会学者)や堀田善衛(小説家)のような若手の文化人による運動だったと言えるだろうね。
▲世界平和研究所参与・小島弘氏(左)、同主任研究員・藤和彦氏(右)
政治が身近だった60年安保
立石
今との違いについてご指摘がありましたが、逆に今のSEALDsのような若者たちを見て、どのようにお感じになられますか?
藤
それについては、逆に小島さんに教えてあげたら?
仁木
そうですね。様々な見方があるとは思いますが、「SEALDs=若者の総意」では無いことは断言できると思います。若者の一部の意見であることは事実でしょうし、共感を得ている若者も存在している意味においてはユースデモクラシーの一部ではあると言えるかもしれませんが、全体の中では少数派ですし、彼らが若者の代表としてメディアに取り上げられているのが恥ずかしいと思う同世代の方もいると聞いています。
特徴的なのは、政治活動に慣れた方々、プロフェッショナルと言うべきでしょうか、そういった人たちが中核に入っていたり、あるいはバックアップをしている一面はあると思います。勿論、普通の人たちも知らずに一定数入っていると思いますが、皆なんとなく気が付いているのではないでしょうか。どちらが主体なのかは研究の余地がありますが、興味深い現象だと思います。
別の見方をすれば、外見を上手にデコレーションしたので、普通の人に「若者の運動」として認識されるだけのイメージを作ることに成功したと言えるかもしれません。メディアコミュニケーションも今までの政治活動に比べて非常に長けていると思います。でも、実際にデモを見に行ってみると、いちご白書をもう一度的な70年安保世代が多く、団塊の世代の老人が多いんですよね。
小島
当時も拘留された奴にはそういう活動家がちらほらいたけど、自分では所属を名乗らないよね。
仁木
当時、デモに参加していない市民や学生からの支持はどのようなものだったのでしょうか。今は世論調査を見ると、安保反対のデモを支持しているのは20~30%程度しかないんですよね。その意味では世論の力でデモが行われているとは言えないのではないかと思います。当時は世論の後押しがあったから、倒閣という成果に至ったのでしょうか。
小島
こういうことがありました。当時、砂川でみんな徹夜していると、仕事が終わった銀座のキャバレーのお姉ちゃんなんかがみんな来て応援してくれたりね。笑
彼女らはもちろん戦争には行っていないけれども、自分の身内が戦争に行っているから。
何より、内閣総理大臣は岸信介さんでしょ。彼はA級戦犯だったから、その岸さんが首相ならば、また戦争になるかもしれないというのは、みんながけっこう感じていた。
それから、例えば、僕らが機動隊のトラックをひっくり返そうとしていると、タクシーの運ちゃんがバーとやってきて「おい学生!そんなんじゃダメだ。そっち側のタイヤのエアーを抜け!」と教えてくれるんですね。それで機動隊のトラックがひっくり返る。そうすると、勿論、ガソリンが流れ出すので、火を付けると燃え上がる。そういう一般の人がどんどん入ってきた。
しかも、夜遅くなると屋台や出店もあそこに出来たからね。砂川はあの町全体がそういう雰囲気になっていましたね。で、僕らも周辺の百姓さんが作ったおにぎりをご馳走になったり、昼間することがないから僕らも農作業手伝ったりしたんだよね。
藤
60年代は戦後10年なので、街中に乞食や負傷兵が普通にいた。今は見ないでしょう?戦争がとてもリアルだった。戦前の岸さんが総理になった事で、また戦争に引きこまれるという大衆の心理をうまく使ったことで、安保運動は大きいものとなったと言えるね。
実際、岸が退陣した瞬間に安保問題は静かになった。今の安倍総理も似ていて、反対者は安倍総理が嫌なだけ。岸さんの安保改定と安倍さんの安保法制はパラレルなんだよね。
仁木
ある意味、政治が身近でリアルなものだったんですね。手触り感のある政治というか。
小島
安保闘争がそれだけ盛り上がったのはそういうことなんでしょうね。一部の学生がやったのではなくて。
仁木
関連するかもしれないのですが、戦後から1990年まで投票率が平均70%あり、小島さんが20代の頃なんて平均で75%あったんですよ。でも、今は70%超えることがないんですよね。小泉純一郎さんの時に盛り上がったと言っても60%代で、民主党の政権獲得時に一番高くなりましたが、それでも69%で、70%の壁を越えられていません。しかも若者は30%代なんですね。
小島
単に18歳に選挙権を付与するだけだともっと落ちるんじゃないかな。
仁木
そうならないように、あらゆる方法で若年世代の投票率向上を目指さないといけないですよね。選挙制度を今の時代に合わせることも必要だと思っています。同時に、若者が自分たちの主張だけをするのではなくて、現実を見据えた上で、将来世代のための意見を言える若者と、それを応援する高齢世代が増えて「世代間対立」をすることなく同じ方向を向いて協同していくことが大切だと思っています。
(後編へつづく)
小島弘
世界平和研究所参与。1932年生まれ。明治大学卒。1957年全学連第10回大会より全学連副委員長。60年安保闘争時は、全学連中央執行委員、書記局共闘部長を務める。その後、新自由クラブ事務局長を経て、現職。
藤和彦
世界平和研究所主任研究員。1960年生まれ。早稲田大学法学部卒。通商産業省(現・経済産業省)入省後、エネルギー・通商・中小企業振興政策など各分野に携わる。2003年に内閣官房に出向し、内調NO2の内閣情報分析官として、経済インテリジェンス分析に辣腕を振るう。2011年より現職。
公益財団法人世界平和研究所
1988年発足の公益財団法人。中曽根康弘元総理が会長を務め、安全保障を中心とする調査研究や、国際交流等を目的とする政策研究提言機関。